2013年10月9日水曜日

144.「1993年の女子プロレス」柳澤 健

1989年のクラッシュ・ギャルズ解散から1993年の北斗晶に至る女子プロレス界の繁栄とその後を描きます。

私が子供の頃はマッハ文朱は既にタレントとなっており、ビューティー・ペアが全盛でした。

1985年からのクラッシュ・ギャルズの全盛時代は大学生であり、何となくは知っていましたが
試合を見たことはありませんでした。

女子プロレスの黎明期は、マッハ文朱が切り開きました。その後、ビューティー・ペアが女子プロレスを「闘う宝塚」というコンセプトで人気が全国的に火が付きます。

ビューティー・ペアに憧れた女の子達が全女に入門し、その後の隆盛を支える人材が育ちます。
そして、体格的に恵まれない「天才プロデューサー」長与千種が女子プロレスに男子プロレスのテイスト「打撃、関節技、スープレックス」を取り入れ、女子プロを最盛期へと導きます。

しかし、女子プロは1989年にピークを迎えたもののクラッシュ・ギャルズの引退後は衰退の一歩を辿ります。

そこを何とか立て直したのは、ブル中野とアジャ・コングの「危険なプロレス」です。
「裏拳、危険な角度のスープレックス、4メートルギロチンダイブ」により、観客は熱狂します。
その裏で観客の構成が女子中高生から男性へと移り変わっていったのです。

このことが、女子プロレスの更なる過激化と、ピーク時には2,000人もいた入門希望者の激減へとつながります。
そして女子プロレスは、全女の単一開催試合の採算が悪化し、他団体への団体戦へと傾倒します。
そして、ついには「北斗晶対神鳥忍」の一戦後、衰退していきます。

殆ど知らなかった女子プロレスの世界ですが、その歴史、実態がわかり、面白かったです。